済渎廟、全称済渎北海廟、昔の“四渎”の中で、最も完備している唯一の最大規模の歴史文化遺産である。宋、元、明、清の古い建築が22座あり、歴代の石碑の彫り作品が40個以上である。“中原の古い建築の博物館”と誉められる。
昔、済水と長江、黄河、淮河は“四渎”と呼ばれた。歴史上の文化が長い。済水の原名は北渎大済の神である。唐玄宗の天宝3年(744年)、清源公の封典を与えられた。宋微宗の宣和7年(1125年)、済水が清源忠保王封典を与えられた。、明洪武2年(1369年)、北渎大済の神に変名した。隋から、歴代皇帝が自ら、或は、部下を派遣し、ここで、盛大な祭祀活動を開催していた。
済渎廟が北から南に向いて、隋開皇二年(西暦紀元582年)に建築された。86000平方メートルの敷地で、全体の平面分布が“甲”の文字の形になっている。、“甲天下”の意味を代表する。また“亀” の文字の形になっていることも言われている。金亀探海の意味である。主体の建物は、3つの軸体に並んでいる。前面には済渎廟があり、後ろには北海祠がある。東には御香院があり、西には天慶宮がある。済渎が主として、北海と繋がり、完璧な四渎同祭の構造になっている。歴代朝延が水の神に祭りをするところである。規格が江渎、河渎、淮渎の3つの廟より大きく、極点に達している。
清源洞の門が、豪華的で、華麗な色彩で輝いている。幾重にも重ねて雄壮で巨大である。国内の珍しい明朝の木製の牌楼建物である。済渎宮殿が宋開宝6年(西暦紀元937年)に建築され、今まで、千年以上の歴史を持つ。中原地区の最も古い建物の一つのである。国宝と言える。
済渎廟は済水の東の源であり、池の中の泉が湧いている。魚は数えるくらい澄みきっている。周りのお寺や高殿の光りや輝きを映って、典型的な北方の古典庭園のスタイルになっている。白居易の《題済水》の詩で、このように語っている:“盈科不数尺、岸柳難通舟。胡為来自古、列渎称諸侯” |